日本人の多くは、海外の文学作品を読もうとしたら、翻訳されたものを読むのではないだろうか。
逆に、海外の方も日本の作品を読む時は各国の言語に翻訳されたものを読むだろう。

一部、原著を読む方もいるだろうが、おおむね翻訳を読むはずである。

映画に関しても同じことが言える。字幕や吹き替えによって、海外の作品を楽しむのではないだろうか。

批判するつもりは全くないし、自分自身も本、映画ともに翻訳されたもので楽しむ。

世間一般の人が楽しむ分にはそれでいいのだろうが、はたしてこれが世界的な賞にもあてはまり、公平な審査が行われるだろうか、と前々から思っていた。

例えばノーベル賞。
ノーベル賞には文学賞があり、次こそは村上春樹か!と言われ続けている。
しかし、ノーベル賞の審査員の多くはおそらく日本語を読めないだろうし、村上作品を審査するとなれば、当然翻訳されたものを読むことになるだろう。
この翻訳によって、日本語の表現を完璧に再現できているだろうか。
翻訳者のさじ加減や主観が入っていないだろうか。
村上さんが英語を読めるかどうかわかりませんが(例に出してすみません)、これが英語を読めない日本人作家の場合、仮に翻訳された本の内容が自分の世界観と相違があったとしても、翻訳された本に自分の意図を伝えることすらできないのではないだろうか。

英語ならまだいい。中学から学んでいるのだから。例えばフランス語に翻訳された日本の本は?ドイツ語は?中国語は?
本当に作者の意図を伝えきれているだろうか。

何も日本語が崇高だと言っているのではなく、海外の作品も日本語訳される過程で作者の世界観をどれだけ再現できているか、わからない。

ヘミングウェイの老人と海なんかは、日本ではすごく有名な海外作品だが、どれだけ正確に翻訳されているだろうか。
名作と言われるものを、原著の言語で味わえないのは大変残念である。
しかし、味わえないのはまぁ自分のいたらないところではあるが、その再現率が怪しい分野に関して、世界的な賞(ノーベル賞とか)にはどれだけ価値があるだろうか。

あの審査員たちは、審査対象である各本の原著の言語で審査しているか。
いや、していないだろう。

そういった点から、ノーベル文学賞にはそれほど意味はないのではないだろうか。

同じことが映画にも言えるだろうが、映画は文学作品と違って物語の内容以外の要素(音響やカメラワーク、BGM等)が多いし、審査対象のほとんどがもとから英語の作品だろう。

しかし、文学作品は物語を構成する文章が審査対象のほぼ全てである。
そのため、日本人作家も海外の作家も言葉による表現に細心の注意を払って世に出しているのだろうし、それを原著の言葉ではなく翻訳で審査しているのだから、各本の表現の真髄を審査しきれていないのではないだろうか。

ノーベル賞で言えば他の物理学賞や化学賞なんかは、理系分野ということもあるが再現率が全てである。再現できなければ成果としての価値がない世界である。
もちろん研究する上での過程としては、再現できなくても十分価値はある。
しかし、賞として審査されるのは成果が全てである。

文学賞はどうだ?作家の意図や表現を再現しきれているか?
特に英訳なんて、多くの文章に「主語」が来る。文脈依存の日本語的表現との違いは大きい。

自分が高校生の時、大学受験のための国語の模試で、この翻訳について述べられた評論文が出題された。
いわく、川端康成の雪国の冒頭にある
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」
は、海外の「Snow Country」だと
「The train came out of the long tunnel into the snow country.」
となる。
日本語だと、雪国の景色が汽車に乗っている自分の主観として述べられるが、英語だと第三者として汽車を見た表現となっている、というのである。
たしかに、検索して冒頭の内容を読んでみたが、そうなっている。

長くなったが、自分の考えとしては、世界中の作家による文学作品の真髄(表現や間、スピード、世界観、登場人物の心情等々・・・)は言葉の壁を越えられない、と思っている。
そして、翻訳に基づく審査に価値はない、とも思っている。

最後に注意を述べておくが、世界的な文学の賞としてノーベル賞を挙げているが、ノーベル賞に恨みがあるわけではない。

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